普段は
忘れてしまっているけれど
僕らはみんな
心の奥底で
求めていることがある。
それは
深い
深い
安らぎの中で生きること。
どんな恐れからも
永遠に守られていて
無条件に愛されていて
絶対的な安心の中で
穏やかに生きること。
僕らは
「その無条件の愛に抱かれて生きていきたい」と
本能的に願っているんだ。
では
どうやったら
「私たちは無条件に愛されている」
と思えるのか?
「無条件」っていうのは
たとえるなら
どんな罪を犯した私のことも
人を責めてしまう私のことも
いつも中途半端な私のことも
なんにもできない私のことも
逃げてしまう弱い私のことも
自分ですら赦せていない私も
「すべてを」
「変わらずに」
受け入れてくれて
愛してくれることを意味する。
無条件の愛を感じるには
最初は
「どんな私も赦されたい」
(どんな私も受け入れてあげたい)
と願うことから始まるんだ。
そして
その赦しの感覚は
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自分自身が
どんな自分の気持ちも
裁かずに
受け止めて
寄り添っていくことで
深まっていくんだ。
───────────────
これが本当に大切で。
僕らは
自分で思っている以上に
自分を裁いているから。
たとえば
理想のために
自分を律しようと思うと
同時に
今の気持ちを切り捨ててしまっているんだ。
「いつまでもこんなことしてちゃダメ」
「こんなことも出来ないなんて」
「もっとうまくやりたいのに」
「いつも逃げてばっかり」
「甘えてばっかりいちゃダメだ」
みたいにね。
そのひとつひとつの気持ちを受け入れて
気が済むまで
寄り添ってあげることが
自分を愛することなんだよ。
出来ない自分も
弱い自分も
怖くて動けない自分も
甘えたい自分も
自分の中にいていいんだよ。
そこで感じる
「悔しさ」も
「いたたまれなさ」も
「申し訳なさ」も
「寂しさ」も
「悲しみ」も
「痛み」も
全部
一緒に感じてあげるんだ。
その気持ちを
【ちゃんと受け止めてもらえたと思えたら】
僕らは
自然と進みたいと思えるようになるから。
動けない時は
気持ちがついていってない時なんだ。
無理矢理
自分を動かそうとしていたら
いつか心が壊れてしまうよ。
【どれだけゆったり休んでも大丈夫だよ】
あなたが
羽化する時は
必ず来るから。
動きたいと
自然と思えるまで
どこまでも
自分の気持ちに寄り添って
自分自身の存在を
抱きしめてあげよう。
「どんな罪深い(弱い)自分も
変わらずに
受け入れて
愛してあげたい」
そう自分が
自分に思ってあげることで
世界は
絶対的な安心感に包まれる。
「こんなことも出来ない私は
愛される価値がない」
僕らは
無意識領域に
多かれ少なかれ
この罪悪感を抱えている。
だけど
心の奥底では
僕らは
自分自身を
赦してあげたいんだ。
だけど
いつも
「対価を支払ってから」
じゃなきゃ
「赦し」を受け取れないようにしているんだ。
「どうやったら、あなたはあなたを赦せますか?」
「そうやって、一生罪を償い続けますか?」
「そうやって、ずっと自分を裁き続けますか?」
「ずっと自分に鞭打って、動きたいですか?」
「誰かがあなたを赦してくれたら
あなたは自分を赦せますか?」
「誰かがあなたを赦しても
自分がしてしまったことを思い出すたび
罪の意識で心が重くなりませんか?」
「過去の自分と同じようなことをしてる人を
いつかの自分が禁止したことをしている人を
責め立てていませんか?」
僕らは
そうやって
同じことをずっと繰り返しているんだ。
もう
あなたは
十分苦しんだよ。
罪を赦そう。
いい加減
自分を赦してあげよう。
いたらなかった自分も
不出来な自分も
誰かを傷つけてしまった自分も
弱い自分も
すべて
受け入れて
赦してあげよう。
その時
感じる軽やかさを
心のあたたかさを
しっかりと味わって。
どこまでも
海のように
空のように
広がっていく
自由な意識を
感じてみて。
【僕らはどこまでも自由で、永遠の平安の中にいる】
それが
本来の
僕らの自然なあり方なんだ。
無条件に
望むままに
好きなことをして生きよう。
なんの対価もいらない。
なんの心配も不安もいらない。
僕らは
無条件に愛されている。
あなたの望みは
ちゃんと叶うと
心から信頼して
その素晴らしさに感謝して
永遠に安らいだ心で
今を生きよう。
どんな僕らでも
その愛に
値するから。
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